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#3

3年B組金八先生」の第5シリーズを最近見直して、改めてこれはマイ・ベスト金八だと思った。

 

金八先生」では毎度、世相を反映した問題が起こるのだけど、1999年放送のこのシリーズの根幹にあるのは「表面化しない悪」である。表向きは優等生で人当たりのよい模範的な生徒・兼末健次郎が、大人の見えないところで同級生の弱みを握り、脅迫し、クラス内の関係をズタズタにしていく。前時代的な暴力による支配ではなく、心理的な威圧によってただ淡々と歯車が狂っていく様子は見る側にもストレスを感じさせ、不穏な雰囲気がじっとりと続いていく。

 

中盤、健次郎の「悪」を金八が認識するとともに、それまでのエピソードで金八に心を開いた生徒が支配に抗うことでクラス内の権力構造が崩れていく。歪な形であれ、均衡が保たれていた状態がぐちゃぐちゃになり、鬱憤が溜まっていた面々から健次郎は断罪される。

 

しかし、わかりやすい「悪」が懲らしめられたことで事態が好転するかというとそうではない。クラスが徐々に団結に向かいつつある中で、健次郎の抱える問題が何も解決していないことを見ている僕らは知っているからである。当然スッキリしないし、物語上も円満な雰囲気は感じさせない。

 

ここまで時折、視聴者に対しては、健次郎が非道な行為に至る経緯として不安定な家庭環境が描かれていた。引きこもりの兄、世間体だけを考える母親、家庭を顧みない父親というどうしようもない状況を健次郎はなんとか家族として繋ぎ留めようとしていたのだった。とても中学生には背負いきれない負荷が、クラスメイトへの攻撃という感情に転じていたのだ。これもまた「表面化しない悪」のひとつであり、学校にとって家庭がいかに不透明な場所であるか、何度も見せられる。しつこいくらいに何度も。

 

ここからしばらく「3年B組」と「兼末健次郎」は同じ時間・空間を共有しつつも、明らかに壁で隔てられているように描写される。無視され、迫害され、それはかつて自分がしてきた行いへの罰でもあるが、金八は当然その状況をなんとかしようと健次郎に歩み寄ろうとする。だが、もはや健次郎にとっては学校も、家も、自分の居場所にはならないのだった。

 

そして、ある事件が起こる。(つづきはきみの目でたしかめてくれ!)

 

 

中心人物の兼末健次郎についてざっくりと抜き出しただけでも起伏のある物語だと思うけど、「金八」シリーズの魅力は生徒一人ひとりにフォーカスを当てる群像の面白さである。特に生徒役の役者は序盤と終盤では演技の巧さがはっきりと変わり、それぞれのキャラクター、役割が確立していく感じは2クールものの醍醐味だろう。

 

この第5シリーズは放送当時はこれまでの「金八」と比べて過激な描写が多く、批判も多かったらしい。私見だけど、いち教師の扱う問題のスケールとしてはこのシリーズがギリギリ最大だったと感じている。以降のシリーズではジェンダー(第6シリーズ)やドラッグ(第7シリーズ)など、より一般化した問題が扱われ、中学生の等身大とやや乖離してしまったように思う。結果、金八の体当たりでは無理が生じてしまうのだ。

 

 

最終話、金八は卒業する生徒たちへの贈る言葉として、一人ひとりの名前に込められた意味を語っていき、そして「君たちは少年Aや少女Bといった、記号で語られるような人間ではない」と告げる。(この言葉については話を追っていけば必要な言葉だとわかる。)役柄として与えられた名前ではあるが、半年間をそれぞれのキャラクターを演じ続けた生徒役の面々は金八の言葉に嗚咽を漏らし、物語は先生と生徒として互いに「最も美しい日本語」を述べて閉じられる。

 

根性でも理性でもなく情緒。金八先生が国語教師でよかった。