山はてな

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#6 コミュニ

以前お世話になっていた友人が海外生活を終えて帰ってきた。

新居探しに付き合ってほしいと誘われたのでついていくことに。他愛ないときに「とりあえずあいつ呼ぼう」という存在に憧れているのでうれしい。

 

向かったのは郊外のアパートで、都心からはやや遠いけど部屋はきれいに改装してあって間取りも家賃も魅力的だった。

ひとつ特徴的だったのは住人で共有する畑があって、月の決まった日にみんなで苗を植えたり収穫したりするイベントがあるらしいということ。また、居室のひとつがコモンスペースになっていて、そこでみんなで採れた野菜を食べたりすることもあるらしい。

畑とコモンスペースの運営費は家賃とは別でいくらかかかるという話だった。

 

正直、めんどくさいなと感じた。畑いじりを介して描かれる理想的なコミュニティと、それに疑いをもたない不動産屋の語り口に、なんだか苦しくなってしまった。

あと、すでに先に長年過ごした住人がいるなかで出来上がった関係性に飛び込むハードルも高い。コミュニティは地域やクラスタなどの水平面の広がりよりも、それを維持・更新する垂直軸を想像する方がはるかに難しいように思う。

 

用意された関係性は、それをきっかけとして上手くなじめればいいのだけれど、その初手を誤るとまったくしがらみにしかならない。

そういえば自分は寮生活してたころ共有スペースがつらくて3ヶ月で出たな、とか思い出した。同居人も何も悪くなかったのに。その時は自分がただただ不甲斐なく感じられて悲しかった。

 

「つなぐ」「交わる」「にじみ出す」というキーワードをストーリーの中核に持ってくる卒業設計は僕が学生の頃からたくさんあったけれど、どうしても正面から信用できない。言葉の善性に寄りかかってその先の思考をストップしてはいないか、と自戒を込めて。

 

忘れないうちに。