山はてな

Twitterとnoteの隙間

#7

毎日使う駅のゴミ箱が撤去された。

 

朝、売店で紙パックの飲み物を買い、出勤途中に飲み、着いた駅で捨てるというルーティンがここ2年くらい続いていたが、その捨て場が無くなってしまった。

結果、売店で飲み物を買わなくなり、いつもより少し早く改札を通り過ぎることになった。そうしたら車輌から改札に直行する波に飲まれてしまって朝の駅の印象が少しだけ悪くなった。

 

知り合いに子どもができるので一緒に名付け本を見てみた。流行りの漢字やナウい読み方がたくさん載っていて面白かった。キラキラネームに警鐘を鳴らすコラムもあったところに現在を感じた。ただ、カタログのように羅列された名前を見てるとなんだか記号でしかないなと思った。初めて対面して思わず浮かんだ言葉がその子の名前になればいいねと話をした。

とりあえず僕も名前案を内緒で考えたので産まれたら答え合わせしようと思う。

 

今日はなんだか12月みたいだな、と思ったけど明日から12月だからそんなもんだ。もし今年が閏年だったら去年の今日は12月なんだから当たり前かと気の利いたことが言えるなと思って閏年を調べたら来年だった。これは来年言うことリストに追加しておこう。

 

久しぶりに晴れたので意味もなく鈍行に乗っている。東京は意味もなく鈍行に乗ってもどこかしらに行けてしまう。

#6 コミュニ

以前お世話になっていた友人が海外生活を終えて帰ってきた。

新居探しに付き合ってほしいと誘われたのでついていくことに。他愛ないときに「とりあえずあいつ呼ぼう」という存在に憧れているのでうれしい。

 

向かったのは郊外のアパートで、都心からはやや遠いけど部屋はきれいに改装してあって間取りも家賃も魅力的だった。

ひとつ特徴的だったのは住人で共有する畑があって、月の決まった日にみんなで苗を植えたり収穫したりするイベントがあるらしいということ。また、居室のひとつがコモンスペースになっていて、そこでみんなで採れた野菜を食べたりすることもあるらしい。

畑とコモンスペースの運営費は家賃とは別でいくらかかかるという話だった。

 

正直、めんどくさいなと感じた。畑いじりを介して描かれる理想的なコミュニティと、それに疑いをもたない不動産屋の語り口に、なんだか苦しくなってしまった。

あと、すでに先に長年過ごした住人がいるなかで出来上がった関係性に飛び込むハードルも高い。コミュニティは地域やクラスタなどの水平面の広がりよりも、それを維持・更新する垂直軸を想像する方がはるかに難しいように思う。

 

用意された関係性は、それをきっかけとして上手くなじめればいいのだけれど、その初手を誤るとまったくしがらみにしかならない。

そういえば自分は寮生活してたころ共有スペースがつらくて3ヶ月で出たな、とか思い出した。同居人も何も悪くなかったのに。その時は自分がただただ不甲斐なく感じられて悲しかった。

 

「つなぐ」「交わる」「にじみ出す」というキーワードをストーリーの中核に持ってくる卒業設計は僕が学生の頃からたくさんあったけれど、どうしても正面から信用できない。言葉の善性に寄りかかってその先の思考をストップしてはいないか、と自戒を込めて。

 

忘れないうちに。

#5

忙しい。ただただ忙しい。

 

やるべきことが一気に3倍くらいになってしまって、仕事を整理するための仕事に追われている。自分が3人いれば、と思ったがそれは退屈だろうとも思う。後輩との意思疎通のズレとか、やむを得ず傷だらけになってしまったものにこそ、見るべきものがあるはずだ。そうでなければ苦しすぎる。お互いに。

 

「苦労は買ってでもしろ」というのは売る側の理屈でしょう? と、昔は言っていたけれど、今では後戻りできるうちに失敗を繰り返すことは尊いことだと思えるようになってしまった。今、僕はリスクに対して大きな怖れといくらかの憧れを抱いている。

 

少し休んだら、目の前に積まれた高さ30cmの紙束と向き合わなければいけない。主語は自分ではない。書かれた言葉への献身を忘れてはいけない。

 

がんばりマンモス

 

 

#4 海と大地の振り子が揺れる。

Neo ATLAS(ネオ アトラス)』という最高のゲームがどれだけ最高かという話(を、なるべく記憶からひねり出して書きたい。なぜなら調べると単なる紹介記事になってしまって途中できっと飽きてしまうから)。

 

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概要についてはWikipediaに詳しいはずなので触れないけど、簡潔に言うとこのゲームの目的は「世界地図を完成させること」だ。そのためにプレイヤーは未開の地へ船団を派遣し、新たな都市と交易をして資金を稼ぎ、ときに遺跡の発掘をして世界の謎に直面する。

 

背景は15世紀、大航海時代ポルトガルの港町・リスボンを拠点として、画面上は周囲が濃い霧で覆われている。これは未知の領域の直接的な表現で、調査船団を派遣して航路を進めると覆われていた霧のうち、通った部分だけが明らかになっていく。

 

タイトルが「Neo ATLAS(=新しい地図)」とあるように、進めていく過程で現れる陸地の形は現実のそれと同じだとは限らない。プレイヤーはその陸地があったことを調査船団からの「報告」というかたちで受け取る。ここが面白いポイントなのだけど、その報告を “信じる” か “信じない” かはプレイヤーの判断に委ねられる。

 

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信じればその陸地は確定し、そこにある都市との関係を築くことができる。信じなければその航路は再び濃い霧に覆われ、再度調査したときにまた別の結果となることもある。見つからなかった島は、そのままその世界にとって無かったこととなり、途中で新たに発見されることは無い。

 

これを繰り返して世界の霧を晴らしていくのだけど、ある程度進めていくとプレイヤーのつくっている地図の「世界観」が分岐する。これは例えば現実の地球と同じ「球体世界」なのか、水平線で途切れた「平面世界」なのか。世界を支えている「巨人」がいるのか、あるいは「蛇」なのか。などで、この分岐によって世界の大まかなかたちが決まっていく。

 

あー、いろいろ思い出してきた。このゲームのオープニングで世界の縁にたどり着いた船が滝に落ちそうな瞬間、一気に海が広がって「この世界は球だった!!」ってなる映像は粗いCGながらとても魅力的だった。大航海時代から近代的な世界観への転換ってきっとこんな感じなんだろうと思わせてくれた。

 


Neo ATLAS OP

 

ところが最新版の『Neo ATLAS 1469』のOPは「15世紀、帆船の時代。この時代、世界はまだ平らでした。」と、無粋なモノローグからはじまる。20年前のスマートさはどこに。

 

また、このゲームは基本的にキャラクターがいない。調査報告の際などに語り手の顔グラフィックはあるけれど、それは「人」が話していますよ、という意味を持たせるだけの存在であって、感情移入をさせたり物語を仮託するような存在ではない。プレイヤーの視点は基本的に常に地図を俯瞰する神の視点であり、都市や探索のスポットも記号でしかない。地図は拡大・縮小こそできるが具体的な人の営みが描かれることはない。唯一、画面の端に髭面のおじさん(ミゲル)がいるが、彼も主体的に物語を動かす訳ではなく発言や行為の補佐的な役目に終始する。Officeのイルカみたいなものだ。

 

劇的なストーリーも魅力的なキャラクターもない。詰まるところ、このゲームはかなり地味な行為の積み重ねを要求する。けれど、それが単なる作業に陥らないのは “信じる/信じない” の手綱を自分自身が握っている実感があるからで、神の視点を持ちながら唯一見えないゴール(=世界の全貌)の存在を最初から常に匂わせ続けてくれるからだろうと思う。

 

翻せば、それだけの単純な要素でゲームの骨格が成立しているのだ。ストーリーゲーでもキャラゲーでもないが、雰囲気に逃げたゲームでもない。つくるのは架空の世界地図だけど、その架空は突然に現れたファンタジーではなく、どこかでプレイヤーを通して現実と接続しているように感じられる。それが、たまらなくよかったのだ。

  

なんでこんな誰に要請されたでもない、旬でもないゲームのことを書いたかというと、ほんとに理由が見つからない。「最高の」ってはじめに書いたけれど、これよりも長い期間ハマったゲームは他にもある。このゲーム面白いからオススメ!って気持ちもあんまりないな。(いや、このゲームについて話せる人が増えることは、とても嬉しいことかもしれない。)

 

ただ、なんとなく、ポケモンスマブラはみんなやってたけど、このゲームは周りでやっている友だちがいなかった。だから自分だけの記憶として大切に思うのかもしれない。そして個人的な記憶を書き進めていくのは心地よい。だってこれ無償の愛だ。

 

 

#3

3年B組金八先生」の第5シリーズを最近見直して、改めてこれはマイ・ベスト金八だと思った。

 

金八先生」では毎度、世相を反映した問題が起こるのだけど、1999年放送のこのシリーズの根幹にあるのは「表面化しない悪」である。表向きは優等生で人当たりのよい模範的な生徒・兼末健次郎が、大人の見えないところで同級生の弱みを握り、脅迫し、クラス内の関係をズタズタにしていく。前時代的な暴力による支配ではなく、心理的な威圧によってただ淡々と歯車が狂っていく様子は見る側にもストレスを感じさせ、不穏な雰囲気がじっとりと続いていく。

 

中盤、健次郎の「悪」を金八が認識するとともに、それまでのエピソードで金八に心を開いた生徒が支配に抗うことでクラス内の権力構造が崩れていく。歪な形であれ、均衡が保たれていた状態がぐちゃぐちゃになり、鬱憤が溜まっていた面々から健次郎は断罪される。

 

しかし、わかりやすい「悪」が懲らしめられたことで事態が好転するかというとそうではない。クラスが徐々に団結に向かいつつある中で、健次郎の抱える問題が何も解決していないことを見ている僕らは知っているからである。当然スッキリしないし、物語上も円満な雰囲気は感じさせない。

 

ここまで時折、視聴者に対しては、健次郎が非道な行為に至る経緯として不安定な家庭環境が描かれていた。引きこもりの兄、世間体だけを考える母親、家庭を顧みない父親というどうしようもない状況を健次郎はなんとか家族として繋ぎ留めようとしていたのだった。とても中学生には背負いきれない負荷が、クラスメイトへの攻撃という感情に転じていたのだ。これもまた「表面化しない悪」のひとつであり、学校にとって家庭がいかに不透明な場所であるか、何度も見せられる。しつこいくらいに何度も。

 

ここからしばらく「3年B組」と「兼末健次郎」は同じ時間・空間を共有しつつも、明らかに壁で隔てられているように描写される。無視され、迫害され、それはかつて自分がしてきた行いへの罰でもあるが、金八は当然その状況をなんとかしようと健次郎に歩み寄ろうとする。だが、もはや健次郎にとっては学校も、家も、自分の居場所にはならないのだった。

 

そして、ある事件が起こる。(つづきはきみの目でたしかめてくれ!)

 

 

中心人物の兼末健次郎についてざっくりと抜き出しただけでも起伏のある物語だと思うけど、「金八」シリーズの魅力は生徒一人ひとりにフォーカスを当てる群像の面白さである。特に生徒役の役者は序盤と終盤では演技の巧さがはっきりと変わり、それぞれのキャラクター、役割が確立していく感じは2クールものの醍醐味だろう。

 

この第5シリーズは放送当時はこれまでの「金八」と比べて過激な描写が多く、批判も多かったらしい。私見だけど、いち教師の扱う問題のスケールとしてはこのシリーズがギリギリ最大だったと感じている。以降のシリーズではジェンダー(第6シリーズ)やドラッグ(第7シリーズ)など、より一般化した問題が扱われ、中学生の等身大とやや乖離してしまったように思う。結果、金八の体当たりでは無理が生じてしまうのだ。

 

 

最終話、金八は卒業する生徒たちへの贈る言葉として、一人ひとりの名前に込められた意味を語っていき、そして「君たちは少年Aや少女Bといった、記号で語られるような人間ではない」と告げる。(この言葉については話を追っていけば必要な言葉だとわかる。)役柄として与えられた名前ではあるが、半年間をそれぞれのキャラクターを演じ続けた生徒役の面々は金八の言葉に嗚咽を漏らし、物語は先生と生徒として互いに「最も美しい日本語」を述べて閉じられる。

 

根性でも理性でもなく情緒。金八先生が国語教師でよかった。

 

 

#2

質問箱に少し前にこんな質問があった。

 

「本当の親友って何人いますか?」

 

僕には自分では使わないと決めている言葉がいくつかあって、そのうちの一つに「親友」がある。この質問の回答にも書いたけど、どうにも気恥ずかしくて自分の言葉にならないように感じている。

 

原因には心当たりがある。中学生くらいの頃にヤンキー系のドラマだかマンガで、やたらと湿度の高い友情ものが流行った時期があった。その影響か、ちょっと悪びれつつ仲間想いっていう人物像がよいものとして共有され、特に田舎の中高生との親和性はとても高かった。それにハマれたかどうかの差だと思っている。(ちなみにこういうとき、往々にして優等生はドライでいけ好かないやつとして描かれるが、他方を貶めることで正当性を主張するのは見ていてしんどい。)

 

自分では使えないというだけで、他の人が使っている分にはあまり気にならない。ただ、なんとなく思うのは、特定の時期までに獲得できなければその先使えなくなる言葉があるらしい、ということだ。それはゲームの時限アイテムみたいなもので、どうやら僕は「親友」という言葉は取りそびれてしまったようだ。

 

 

#1

困ったことに、どうでもいい文章の行き場がない。

 

Twitterでは書ききれないけどnoteに書くほどでもないようなことを残す場所として、試しにこのブログを立ち上げてみた。そんな取るに足らない文章、自分のメモにでも書いておけよと言うかもしれないが、これも困ったことに自分は自分の書いたものがちょっとは人の目に触れてほしいとも思っている。(メモに書くのを試してみたけど、それはもう寂しかった。)

 

noteは集合住宅みたいなもので、みんなに平等に白く清潔な部屋を与えてくれる。関係をつくるきっかけも与えてくれる。ただ、みんなで同じ場所を共有するということは少なからずルールが存在して、(それは明文化されているわけではないけれど)なんとなく明るく、優しく、ポジティブでいなければいけないような気がするときもある。

 

これはまったく悪いことではなくて、そういった「良い場所」像を利用者で共有し、実現できているのがすごいって話だ。Twitterでいろいろな人と知り合えたことも間違いなくnoteの恩恵のひとつだ。ありがとうございます!

 

けれど時々、もっと雑に汚してもいい部屋があればなと思う。本来的に僕は割とどうしようもない人間だという自覚がある。あらゆる時間を有意義に使えているわけではないし、むしろ浪費しているときの方が心地よい。SNSではよさ気な部分だけをトリミングしているけど(自分をキャラ化してしまうことはSNSの功罪だ)そんなのは生活全体のほんの一部だ。でも、じゃあ残りの大半に見るところがまったく無いかというとそうでもない。どうしようもないなりに考えていることはあるし、そういうところには詩が落ちてたりもする。

 

なのでここは、noteという部屋をきれいに保つために切り分けられた物置き的な場所にする予定だ。ここで書き散らした雑文が、いい感じに発酵するかそのまま腐敗に傾くか、今はまだわからないけれど。